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2006年02月21日

守破離の宿命(後編) 武を極めれば舞となる

「それは無理やな。俺も色々武道をやってきたけど、今は自己流になっとるからな」夫の意外な返事に、私はとまどいました。
私の質問は「今でも空手を教えられるか?」

夫は空手4段剣道3段少林寺拳法3段合気道2段柔道初段で、空手と剣道は指導員の経験があります。
本で武道や格闘技を学んで、実地で人を殴ってきた私と違って、夫は、しかるべき師について、基礎から何年も武道を学んでいるはずなのに。なぜ?

「師範と弟子は、体格やら年齢やら体力やらが違うやろ。つまり、最初の条件が違うわけや。いい師範について、何十年稽古して、似た動きにはなるかもしれん。そやけど、師範をコピーしたみたいに、まったくそっくりな動きはできんもんや」

そう言われてみれば、そうかもしれません。

「師範から習うた技に、自分の考えやら経験が加わって、オリジナルな技ができたり、新しい考え方の武道や格闘技が出てきたりするわけや。それはどうしょうもない。俺は若い頃、街で喧嘩すること多かったから、どうしても、得意の蹴りが中心になってしまうんや。芦原秀幸先生と、まるっきりそっくりというわけにはいかなんだ」

遠い目をして、しみじみと夫は語りました。
……そういうものなのかなあ。

ところで、少し前のことになりますが、合気道の植芝守央道主と関西地区合気会の有名な先生方が集まられての、大きな演武会がありました。
道主先生や師範をはじめ、合気道のトップレベルの技術を持つ先生方の演武(争いを好まない合気道には、勝ち負けを競う「試合」はありません)を、間近で拝見する機会に恵まれて、私はとても運がよかったと思います。

ここで興味深かったのは、先生方が同じ技を演武されているのにもかかわらず、まったく違う技を演武されているかと錯覚するほど、先生方のそれぞれの動きが異なっていたことです。

道主先生の演武は、端正にして気品にあふれ、要所要所の動きがきっちりと美しく決まっていて、折り紙細工の鶴を見ているような感じ。
師範は、お好きな言葉『武を極めれば舞となる』の通り、水の流れのごとく自由自在でありながら、全体に美しくまとまった動き。

他には、当身を重視した空手のような動きをする先生。
投げ技を中心に柔道に近い動きをする先生など。
……それぞれが同じ「籠手返し」であり「入り身投げ」であるはずなのに、別な技のよう。
でも、どの先生の技にも品があり、それぞれが魅力的。

合気道の技が、先生方の解釈の違いによって、全然違う形になってしまうことは衝撃的でした。
しかし、同じ合気道の技なのです。

江戸初期の武芸十八般から、様々な武道が生まれ、時代に合わせて形を変え、さらに新しい武道に枝分かれしていく……
『守破離』は、千利休の喝破した通り、すべての芸道の宿命ならば、私たちは師について、何を学び、何を受け継いでいるのでしょうか。

ひょっとしたら、それは『志』かもしれません。
posted by ゆか at 11:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 武道系コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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