差出人は、地元信用金庫の文化情報誌の仕事の発注者。
出版社を経営するかたわら、劇団『あんがいおまる一座』を主宰する女性「まる」さん。
同封されていたのは『あんがいおまる一座スタジオ公演 八月の光の中で−被爆電車の少女たち−』のチケットが2枚。
原作者は綾羽一紀氏。
2つの信用金庫の仕事は、この方が突然倒れたために、私のところに転がり込んできたのです。
公演期間は、広島に原爆が落とされた8月6日から3日間。
起業家の友人、Kさんと一緒に、大阪市港区のスタジオ『石炭倉庫』に出かけました。
8月は「戦争の月」のように、戦争のイベントが開かれますが。
実際に戦争を体験した世代の人は、わずかになりました。
30年以上昔、明治生まれの祖母ハンナ・オコンネルが、私に語った「戦争の話」は、大空襲があった大阪でのこと。
祖母の父は日本人、母はアイルランド系アメリカ人。
戦時中、祖母のような「日系人」は、日本にいても、アメリカにいても苦労したのです。
この時、アメリカに残っていた祖母の兄一家は消息不明に。
ようやくお互いの消息がわかり、祖母の兄の子孫が大阪に訪ねてきたのは、つい数年前のこと。
祖母が私に語った「戦争」は……
「食べたいものが食べられず、病気になれば死ぬだけ。毎日、簡単に人が死ぬ。言いたいことも言えない。自分の友人知人、近隣の人さえ「敵」かもしれない世の中」
この話を聞いただけでも戦争は嫌です。
さて、公演の話に戻ります。
『八月の光の中で−被爆電車の少女たち−』の舞台は、昭和20年8月の広島電鉄家政女学校。
戦争で出征した男たちに代わって、広島電鉄の運転士や車掌として働くために、西日本各地から集まった14歳から16歳の少女たちが主人公。
スタジオに入ると、壁も天井も黒幕で覆われていて薄暗い。
30ほどの客席の前方には、畳20畳ほどの舞台と、スライド用の幕があるだけ。
開演時刻になると、舞台にライトが当たり出演者が現われました。
語り手の50代の男性。
紺の乗務服を着た50代の女性1人と、20代の女性2人。
物語は現在。
今は年老いた少女の回想からはじまります。
「そこへ入れば、勉強もタイプもミシンも作法も習える」と、希望に胸をふくらませて集まった307名の少女たち。
次第に物資が乏しくなる中、空腹を抱えて「お国のために」と白い鉢巻を額に巻いて電車を運転する健気な少女たち。
小道具なしで、演技と効果音だけで電車の運転を表現するのです。
レベルが高いですね。この劇団。
そして運命の8月6日。
一瞬、スタジオは照明が消え、轟音とともにスライドに原爆のきのこ雲の映像が映し出されました。
それを背景に、もだえ苦しむ少女たちのシルエット。
瓦礫と死体の山と化した広島市街。
必死で仲間を探す少女たち。
電車の中で変わり果てた友の姿に泣き崩れ、助けた友も次々に死んでいく。
被爆死した女学生は30名。
それでも少女たちは悲しみをこらえて、原爆が落ちた3日後、8月9日に電車を復旧させました。
そして8月15日、玉音放送。
「神風は吹かなかった」と、すすり泣く少女たち。
戦争が終わって男たちが広島に帰ってきました。
語り手役の男性が少女たちに冷然と告げます。
「学校を開放するので各自家に帰るように」
広島電鉄家政女学校の終焉は、実にあっけないものでした。
ラストシーンは……スライドに広島電鉄家政女学校の女学生の集合写真が映し出され、ヴァイオリンの悲しげな音色が流れる中、「戦後65年、風化しつつある戦争の記憶……でも、どうか私たちを忘れないでください」と声を合わせて叫ぶ3人の少女。
ゆっくりと照明が消され、再び舞台は闇に包まれました……。
戦争に翻弄された少女たちの青春。
私は、それを決して忘れないでしょう。
ラベル:戦争