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2006年07月18日

柔〜やわら〜(前編) 武道絶滅の危機と嘉納冶五郎

『守破離の宿命』(前編)で少しふれましたが、歴史上、日本の武道は2度、絶滅しかけています。1度目は明治維新直後の10年間。文明開化の時期。

2度目は終戦直後、GHQによる武道禁止令。
アメリカを中心とする占領軍は、「武道は戦争を助長した」として大日本武徳会を解散させ、学校で武道を教えること、「武道」という言葉を使うことを禁じ……暗黒時代は昭和27年に占領軍が解散するまで続きました。

そんな苦難の歴史を乗り越えて、現在の武道が発展してきたわけですが、今回は、文明開化の頃、「日本人自身が武道を否定した時代」について書いてみます。

すでに、江戸末期に西洋式の兵法が取り入れられたため、弓術・柔術は実践的な価値を失っていました。
その上に明治維新の廃藩置県で、それまで藩士の教育として行なわれていた武道教育はなくなり、廃刀礼で刀を持つことが禁じられ、武術は「旧世代の遺物」とされたのです。

幕府や藩に仕えていた多くの武術家が職を失い、警官や教師に転身したり、農業をする傍ら道場を開いて農民に剣術を教えたりしている中、相撲をまねて興行、つまり剣術を見世物にした「撃剣興行」をする人々が現われました。
明治6年頃の撃剣興行は、剣術だけでなく、柔術、馬術、槍術、鎖鎌、長刀など、各種武術の達人たちが出演し大盛況。

その後、撃剣興行は低俗化して廃れていくのですが、当時の武術を保存して、武道が絶滅の危機を脱する一つの力となったことが、現在では評価されています。

さて、この頃、柔道(講道館柔道)の創始者、嘉納治五郎氏が登場します。

教育家であった彼は、教育を『体育、徳育、知育』と定めました。その虚弱な身体を頑健にした柔術の効用を青少年教育に生かすことを考え、明治15年、柔術諸流派の技法を改良し、『体育、修心、勝負』を目的とした近代柔道を創設したのです。

それまでの武術は、武士の教育にも使われていたのですが、どちらかといえば、実戦技法重視、精神面の教育は二の次。
「武道を通して青少年の健全育成を図る」を目的に作られた柔道は『自他共栄・精力善用』の理念を掲げ、発展していくことになります。

一方剣術は、明治維新以降、各地で起きた反乱鎮圧に活躍した軍人や警察官の中に、元剣術家が多数いたことで再評価され、警視庁や軍隊に高名な剣術家が招かれて警察官や軍人の指導をはじめます。
……この流れが、日清戦争後の武道復興運動とつながりました。

明治44年、「撃剣・柔術(剣道・柔道)」はともに中学校の正式科目になり、その後の武道発展のきっかけとなるのです。

日本各地やヨーロッパで柔道の普及に努め、日本人初の国際オリンピック委員、大日本体育協会会長、貴族院議員にまで登りつめた嘉納治五郎氏は、昭和13年、柔道をオリンピック種目にする道半ばで亡くなりました。
享年79歳。

後に、昭和39年の東京オリンピック大会開催時から、柔道は正式種目に。
このことが世界中の人々の関心を「日本の武道」に向けさせ、各武道は本格的に国際化していきます。

嘉納治五郎氏は、自らが創設した柔道だけでなく、空手や剣道、合気道にまで、強い影響を与えました。
その話は後編にて。

……次回に続く……


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