……先生から出された課題。
さて、どう彼女に受身を教えようかな。
まず、彼女に武道経験の有無、日頃やってるスポーツがあるか。
そして、肘や膝や腰に故障があるかどうか尋ねました。
肘や膝や腰の故障は、外見からわからないことが多く、それを知らずに、肘や膝や腰に負担がある動きをさせてしまうと、後で大変なことになりますから。
彼女は介護職で、「体の使い方」に興味があるとのこと。
スポーツはしてなくて、たまに自分でストレッチをする程度。
チラシの『合気道は、稽古を通して、人が本来持っている心と体の力を引き出す武道です』の言葉に魅かれて、体験稽古をしてみようと思ったらしい。
……なるほど。健康志向で自分の頭で考えるタイプか。
的確なアドバイスさえあれば伸びるタイプだ。
彼女の性格が大体わかったところで、教え方を頭の中で組み立てます。
「では、まず、一番基本の後ろ受身からいきましょう。まず、畳の上でしゃがみます」
私はしゃがんでみせました。
彼女も私と同じように畳の上でしゃがみました。
「で、どちらか片方の足を後ろに下げる。とりあえず、右足を下げてみましょう」
「こうですか」
彼女も私の真似をします。
「この時、足の指を立てずに、足の甲を地面につけます。指を立てていると、体重のかかり方によっては、指の骨を折ってしまうことがあるので、気をつけてください。そして、後ろへ転がり、その時両手で畳を叩く」
私は体を丸めて後ろに倒れ、両手で畳を叩きます。
「元へ戻る時は足を入れ替える」
体を丸めたまま、起き上がりました。
「では、やってみてください」
彼女はヨタヨタと、しかし懸命に後ろ受身の稽古をします。
「もうちょっと、畳を強く叩いた方がいいですね」
私の後ろから先生がアドバイス。
「畳を叩くのは、着地の時に衝撃を和らげるためです。合気道の受身は、頭とお腹を、体を丸めることで守るわけです。体を丸めるために、ベルトの部分を見るといいですよ」
「確かに、頭を打ったりお腹を打ったりすると、大変なことになりますね。……足を入れ替えて立つのには、どんな意味があるんですか?」
「相手の動きによって、立ち上がった時、右足からでも左足からでも踏み出せるようにです。ちなみに、この受身を覚えると、急に後ろに転倒した時でも、頭を打たずにすみます」
今度は私が答えました。
「では、10回、後ろ受身をしてみましょうか」
私は、ゆっくり10回数えて、彼女に後ろ受身をしてもらいました。
最初の2回はモタモタしてましたが、最後の方はスムーズな動き。
まずは合格点でしょう。
「次は、後ろ回り受身と前回り受身。ちなみに、畳の上を転がると血行がよくなります」
私は彼女にわかるように、ゆっくりと後ろ回り受身と前回り受身をしました。
護身目的の初心者には、合気道の動きが、どう護身の役に立つのか説明しますが。
彼女は健康目的の人なので、健康効果を重点的に説明します。
「すみません。先生。マット運動の前転と後転をしていただけますか」
先生は軽快な動きで前転と後転をしてみせます。
「前転と後転、後回り受身と前回り受身の違いは、何だと思います?」
「前転と後転は、背骨に対して平行に回るけど、後回り受身と前回り受身は対角線?」
「そうです。さすがは介護職ですね。受身を見ただけで特徴をつかむとは」
「そんな。おだてないでくださいよ」
照れながらも笑う彼女。
「では、ゆっくり後ろ回り受身をやってみましょう。危なくなったら助けますから大丈夫。まず、さっきの後ろ受身と同じ要領で右足を後ろに下げる。右のお尻、背中、左肩の順番に畳についていきます。左肩を着く時は、左手を伸ばして、右に頭を傾けて「肩を抜く」。では、やってみましょう」
彼女は、おずおずと右膝から右のお尻、背中と順に、畳につけていきますが、「肩を抜く」ところで頭が引っかかった。
私は彼女を支えて、なんとか後ろ回り受身をさせました。
「後ろ回り受身は、こういうこともできるんです」
私は後ろに倒れて後ろ回り受身をし、その反動を使って立ち上がりました。
驚いた表情の彼女。
「受身は、次の行動がしやすいんです。前回り受身は立ち上がった時、即相手の方へ向けます。これは、低い位置からやってみましょう。まず左足を出した状態で立て膝、左手を前に出す。そのまま前に転がるんですが、その時、あいている右手で畳を叩き、衝撃を和らげます」
ゆっくりと前回り受身を2回繰り返した後、言いました。
「では、この両方をやってみましょう。落ち着いて、ご自分のペースでいいですよ」
彼女は、真剣に前回り受身と後ろ回り受身を繰り返しますが。
左が苦手らしく、前回り受身に失敗して、前にいかず横に転がってしまいます。
「左側失敗してばかりで。ダメですね。私」
嘆く彼女に私は言いました。
「大丈夫ですよ。人間は利き手利き足があって、どちらかが苦手なのが普通です。稽古するうちに、両方できるようになりますから」
彼女は安心したようです。
それから、柔道場の端から端まで後ろ回り受身、前回り受身をしてもらいました。
左の前回り受身は、時々ねじれて横に転がるけれども、後ろ回り受身は右も左もできています。
「すごいじゃないですか。もう受身ができてる。苦手の左も、最初に比べてマシになってきましたよ」
「そんなことないですよ。あんまりおだてないでください。もう」
最後に、私が先生に投げられて、飛び受身(宙返りのような受身)を見せました。
「すごい。自分から飛んで、安全な高さで受身してるんですね」
感嘆の声を上げた後、彼女の表情は曇りました。
「私、こういうの、できるでしょうか?」
「初段だし、9年やってるから飛び受身ができてるわけで。私は最初、あなたより受身が下手だったんですよ。極端な左利きだったし。ねじれて転がってばかりで」
「ほんとですかぁ?」
「ほんとですよ。今日やった、基本の受身が完全にできるようになれば、いろいろな技をやっていきますから。肩こりに効く技だってあるんですよ」
「あ、それいいですね。ぜひやってみたいです」
稽古が終わると、彼女は私たちに深々と頭を下げました。
「今日は、ありがとうございました。受身ができるようになって、うれしかったです」
「またお気軽にいらしてください」
先生がそう言うと、彼女は笑顔で帰っていきました。
私は先生に謝りました。
「すみません。今日は、うるさくて申し訳ありませんでした。所属道場では、よく「口数が多すぎる。口で稽古するな」と言われてたのですが。彼女はロジカルに教えると、理解が早いタイプだったようなので」
「いや。僕も、彼女は理屈から入る人のように思えたので、今日の島村さんの教え方は、的確だったと思いますよ。それに、島村さんも、ほんとに楽しそうに教えてましたし。」
「はい、3年ぶりに、初心者を教えられて楽しかったです。ありがとうございました」
「初心者を教えるのも稽古の一環ですからね。機会があれば、やってもらいましょうか」
先生は笑って言いました。
稽古に来た時には受身ができなかった初心者が、ちょうど30分で、基本の受身が一通りできるようになって帰っていった。
……彼女の笑顔を思い出すたびに「教えてよかったなあ」と思います。
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