まず、空手道。
琉球の古武術だった「琉球唐手」を世の中に広めようとした富名腰義珍氏が、嘉納治五郎氏の力を借りて、大正11年下富坂講道館(嘉納氏の道場)で公開稽古を行ないました。
講道館柔道の高段者や報道関係者が多数観覧したこの公開稽古。
嘉納氏自身も、唐手の理合(間合い)について質問し、実演したため、新聞で大きくとり上げられ、これを機に唐手は一般に普及していくことになりました。
ちなみに「唐手」が「空手」になったのは昭和4年。
元々「琉球唐手」は琉球(沖縄)に中国から伝わった拳法が発展したものでしたが、当時、鎌倉円覚寺・古川管長から禅の教えを受けていた富名腰氏が、「唐手」の「唐」の字を禅語の「空」……「無限に展開していくこと」に変えたのだそうです。
そして、初期の合気道を助けたのも嘉納治五郎氏でした。
昭和5年。誕生して間もない合気道の道場に、突然嘉納治五郎氏が来訪。
開祖植芝盛平翁の演武に感嘆し、永岡氏、望月氏、武田氏の3名の柔道高段者を、開祖の道場に派遣したのです。
特に望月稔氏は後に合気道の武道家となり、海外に合気道を広める重要な役割を果たします。
元々、柔道の高段者で、自発的に合気道を学ぶ人々が多くいましたが、講道館からの正式な高弟派遣によって、柔道と合気道の交流はますます盛んになります。
実は柔道と合気道、二つの武道の発祥は「柔術」。同じ武道です。
そして、嘉納治五郎氏と植芝盛平翁、お二人とも同じ動機……虚弱な体を頑健にするために柔術を学んだのが、武道をはじめるきっかけでした。
彼が高弟を派遣したのは、柔道の理念「自他共栄」と合気道の理念「天地合一、和合」が、比較的近い考え方だったからではないかと、私は思います。
嘉納治五郎氏は、武道を教える教師を養成し、柔術と剣術の型を制定した「大日本武徳会」でも、強い影響力を持ち、他武道の普及にも力を注ぎます。
彼は、自分の創りあげた講道館柔道だけでなく、武道界全体の発展を考えていたスケールの大きな人でした。
参考文献
『復刻版・合氣道』(植芝吉祥丸著 出版芸術社)
『日本史小百科 武道』(二木謙一他著 東京堂出版)
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