ジーンズに白いTシャツ姿。
右手で自転車を操り、左手には金属バット。
野球帽の下のうつろな瞳。
訳をわからぬ言葉をわめきつつ、一直線にこちらに向かってくる。
私は、とっさに持っていた鞄を頭にかざしました。
……頭への最初の一撃を避けられれば、勝てる……
金属バットを振り上げながら、猛スピードで接近する男。
私がいるのは相手から見て右側。
距離は15メートル弱。
相手は、左手で金属バットを振り回しながら猛スピードで走っているため、ハンドルを持つ右手を離すことができない。
金属バットで狙えるのは、高さとスピードから推測して、私の頭だけ。
ところが実際は、金属バットが私の頭に当たる前に、自転車の前輪が金網にめり込む。
男は間違いなく自転車から放り出されて金網に激突。
長袖ジャケットを着ている私と違って、相手は薄いTシャツ一枚、むき出しの腕。
猛スピードで有刺鉄線の中に突っ込めば無事ではすまない。
しかし、相手は精神異常者。
何をしでかすかわからない。
相手が動けないすきに、金属バットを奪い、首を後ろから力一杯叩く。
何度か叩いて完全に動かなくなったのを見届けて立ち去る……
この状況を切り抜けるには、それしかない。
激突まで5メートル。
覚悟を決めた私は、鞄で頭をガードしたまま相手をにらみました。
足元から静電気を帯びた靄のようなものがたち昇るのがわかります。
この感触は久しぶり。
激突まで、あと3メートル。
突然男は、私にむかって何事か大声で叫びました。
金属バットを振りかざしたまま、私の前を通り過ぎて、さらにスピードを上げ、あっという間に走り去っていきました。
たちまち豆粒ほどになった男の後姿を見送りながら、私はほっと溜息をつきました。
男が去った後、私は急いで社会保険事務所に行き、手続きをすませて、帰りは人通りの多い道を遠回りして会社に帰りました。
帰宅して、夫にその話をすると、夫は顔色を変えました。
「○○へ行ったやと! お前はあほかっ! ちょっと、そこへ座れ!」
リビングに正座させられて、10分ほど説教されました。
社会保険事務所がある場所は危険地域だったのです。
大阪市内には、一般人が立ち入ってはならない危険な場所がいくつかあって、私も有名な場所は知っているのですが、ここは、知る人ぞ知る危険地域だったらしい。
だから、昼間の街中なのに誰も道を歩いていなかったのです。
「相手が1人、自転車で、曲がり角で出会い頭やったから、助かったようなもんや。もし、相手が2人乗りのバイクで、後ろのやつが金属バット持っとって、直線距離で出くわしとったら、お前、やられとったわ」
「すみません」
私より、ストリートファイトの場数を踏んでいる夫。
ごもっともな意見です。
「ほんまにもう、危ないマネよって……お前のことやから、また、殺人鬼みたいな顔で笑うとったんやろ……ほんまに、しゃあないやっちゃ」
夫は呆れたように言った後、表情を和らげました。
「そやけど、お前の判断は、素人としてはベストやった。ここで一番やったらいかんのは、相手に背を向けて逃げることや。それこそ、相手に「殴ってください」言うてるようなもんや」
「逃げたって、相手は車ほどのスピードあるのに、走って逃げ切れるわけないやんか」
「そこが素人の悲しいとこや。どうしても、パニックになってまう。……俺なら、この場合、得意の飛び蹴りで、相手の右側面から頭を狙う。なんで右なのかは、わかるな」
「相手が左手でバット持って、右手で運転してたら、右側は死角になるからでしょう」
「そうや。お前も、だてに喧嘩慣れしとるわけやないな」
私はうつむきました。
「でも、本当は、こんな時、ちゃんと武道を習ってたら、「死ぬか殺すか」じゃなくて、もっと、いい方法で解決できたんじゃないかと思うんだけど」
「……武道か……」
夫は低く呟きました。
後に夫の勧めで、私は合気道をはじめ、まもなく初段になろうとしているのですが、いまだに、「もし、この状況を合気道で解決するとしたら、どの技がベストなのか?」の答えが出せません。
合気道の技は、一説によると「無限にある」ということなので、まだまだ私の知らない技がたくさんあって、その中に、きっと、この問いの答えもあると思います。
もっと稽古に励まなくては。
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