以前、月刊『武道』に、武道必修化についてのエッセイを寄稿させていただきましたが、日本の伝統文化の一つ、「武道」が一般の人にとって身近なものになるのは喜ばしいことです。
しかし、今、ある問題が、中学武道必修化に暗い影を落としています。
柔道事故……柔道の稽古の最中に死亡や障害が残る事故の問題。
『毎日jp』は、2011年10月9日の社説「柔道死亡事故「必修化」前に安全徹底を」で武道必修化について心配しています。
『安全対策が急務なのは、学習指導要領の改定に伴い、来年度から中学1、2年生の授業で武道が男女とも必修になるからだ。柔道、剣道、相撲が対象だが、柔道を選ぶケースが最も多くなると予想される。中学は全国で約1万校あり、来年度の1、2年生は約240万人となる。競技経験のある指導者が絶対的に足りない。各都道府県の教育委員会は教員を対象に研修会などを開催しているが、日程は短く十分とはいえない。大阪の死亡事故が示すように、競技実績があるからといって適切な指導ができるわけでもない』
私もTwitterで、中学に上がる子供を持つお母さんの不安のつぶやき「武道必修化が怖いです。安全な武道ってないんでしょうか」を見て、心が痛みます。
厳密には「安全な武道」はありません。
剣道の木刀、居合の刀、弓道の弓矢、なぎなた道の長刀……いずれも使い方によっては凶器になります。
素手なら安全とも言えなくて……。
瓦を砕く破壊力を持つ空手の拳、相手の関節や骨にダメージを与える危険な技がある合気道……
すべての武道は、自分の身を守るための技術なので、「危険がない」とは言い切れません。
「相手を傷つける技術や力を持ちながら、強い自制心で、それを使うことなく、礼儀正しさと深い思いやりで相手に接する」のが、武道家の理想じゃないかと私は思うのですが。
今回、指導者が多額の賠償金支払いを命じられ、問題視されている柔道は、相手を投げ、抑え込み、首を絞め、関節技で制する武道なので、野球や陸上競技や水泳などの他のスポーツに比べると、危険度が高いことは知られています。
『全日本柔道連盟』サイトによると、柔道事故は、2003年の障害補償・見舞金制度スタート以来、8年間で86件。
その内訳は、脳及び頭部損傷 が36件(41.2%、うち死亡18件、後遺症14件)。
頸部損傷が22件(25.5%、うち死亡1件、後遺症13件)。
ケガは頭部、頸部に集中しています。
事故が起きた時の技がわかっている59件のうち、頭部のケガが後方への投げ技(大外刈11件、小内刈5件、大内刈4件など)。
頸部のケガが前方向への投げ技(内股9件、背負投8件など)で起きています。
負傷者の年齢は13〜17才が62.8%。
事故に遭った人の23%が経験年数1年未満。
初心者、特に中学1年生や高校1年生が乱取りを始めた5〜7月ごろに事故が多い。
……うーむ。恐ろしい話だ。
しかし、これだけのデータが揃っているなら、なんとか防止策を立てられそうなものだけど。
先日、夫と一緒に、柔道事故問題の番組を見てました。
これは2008年、長野県松本市の柔道教室で、当時小学6年生だった男の子が指導員に危険な投げ技をかけられ、急性硬膜下血腫で重い障害を負った事件のことです。
番組の中で、実際に事故が起きた技「片襟のみつかむ変則的体落とし」のCG再現映像がありました。
……道着の片襟をつかまれ、受身の取りにくい不安定な態勢で、1m以上もある高さから、すさまじい力で頭を畳に叩きつけられる少年。
「あかんやろ!それは!」
私と夫は同時に叫びました。
「無茶するなあ。柔道って」
「体落とし自体は禁止技やないけど。小学生相手に、これはあかんやろ。俺が親父に町道場へ行かされた時も、こんな無茶する先生おらへんかったで」
夫は空手四段剣道三段少林寺拳法三段大東流合気柔術二段柔道初段。
亡くなった夫の父は柔道五段で、町道場で子供たちに柔道を教えていた人。
「禁止技」とは、成長途中の子供に悪影響を与える可能性のある技のこと。
小学生以下は絞め技と関節技、中学生以下は関節技と三角絞めが禁止技とされています。
「何度も投げられて、ふらふらしてたんやから。なんで、これ以上投げたら、受身失敗するかもしれんと……なんで思わんかったんや」
空手と剣道の指導員だった夫は嘆きました。
ふらふらしている子供を「体力の限界」と見るか「もう少しで上達できる」と見るか。
私もそうですが、町道場に通う武道家は、「ケガは己の不覚」と考えてしまうところがあります。
おそらく、少年に重傷を負わせた指導者も、古い武道の感覚「ケガは己の不覚」「根性があれば、どんなことでもがんばれる」が頭の片隅にあったんじゃないでしょうか。
自分の体調を明確に説明できる大人なら、ケガを避けられたかもしれない。
でも、それを子供に求めるのは無理でしょう。
しかも、武道必修化で学校の授業として行われると、指導者個人だけでなく、「学校の責任」までが問われます。
「武道は危険なので必修化するべきではなかった」という最悪の結論になるかもしれません。
もちろん柔道界も対策を立てています。
2011年6月、財団法人全日本柔道連盟安全指導プロジェクト特別委員会が配った冊子『〜事故をこうして防ごう〜柔道の安全指導』には
『指導者には、事故防止のために果たすべき安全配慮義務があり、違反した場合、民法上の不法行為責任を問われることになります』
と明記されていて、柔道界の危機感が伝わってきます。
必修化される武道については、各中学校の校長の裁量で教える武道を自由に決められるようになりました。
茨城県笠間市、和歌山県田辺市、新潟県加茂市、京都府綾部市などが、授業で合気道をする準備を進めているようですが。
道場で稽古するのと違って、学校で教える場合は、授業に対応した細かいマニュアルが必要です。
冊子『〜事故をこうして防ごう〜柔道の安全指導』には、指導計画の策定や、授業開始前のチェック事項(生徒の体調・道場の安全点検など)、水分補給や休憩時間の設定。
接触事故防止のために、練習人数が多い時はグループに分けて、複数のコーチや上級者で見守ること。
頭や首の怪我についての図解説明や、実際に起こった事故のケーススタディー。
事故や熱中症などの対策。
準備運動の図解、水分補給の基準。
ケガをした時の応急処置、救急車要請のポイント、家族への連絡。
事故報告書の様式などが載っています。
柔道以外の武道にも、指導の参考になる資料だと思います。
明治時代、柔道の祖・嘉納治五郎が、学校で授業と取り入れて以来、「学校で教えられた歴史」の長い柔道だからこそ、他の武道に先駆けて、こんな資料を作れたのでしょう。
『財団法人全日本柔道連盟』サイトから、誰でもダウンロードできます。
学校関係者だけでなく、あらゆる武道を教える人の役に立つ資料なので、おすすめです。
ただ、武道必修化について問題になるのは、安全面だけじゃないんですね。
……次回に続く……
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個人的には反対です。そもそも教えられる人材があまりにも少ない。一般の人の武道のイメージは武道=武術=格闘技ですから、もちろん親御さんもそういう考えでしょう。だとすると、そのお子さんたちもそう思っているでしょう。武道といっても今はただ技を教える道場が多いですし、礼儀を学べると言っても、形式的な挨拶くらいしかしらない指導者も多い。大体、今の武道を日本の文化なんていうことができるのでしょうかね。
なんて、つい愚痴っぽくなってしまいましたが、まず、武道というものが何のために生まれ、何を目的としているのかを生徒よりも先に一般の人や指導者に再認識させ、少しでも理解してもらうほうが先だと思うのですが。