「今回は「見送れ」との決定だ」……
道場長代行の重々しい言葉に、私は唇を噛みました。
「いたしかたありません」
冷静に答えたものの、たぶん、私の顔からは血の気が引いていたでしょう。
他の道場の昇段審査は、規定稽古日数を満たしていれば、受験できるのです。
そして、技ができなければ落ちる。
私の通う道場の昇段審査は、規定稽古日数を満たしていても、師範のお許しがなければ、審査を受けることができません。
ただし、審査を受けて落ちた者はいない。
師範が普段の稽古を観察されて、有段者にふさわしい実力がある人に昇段審査を受けさせる道場。
今回の審査について、「座技呼吸投げの体力がなあ」と代行は心配されていました。
これは、初段の昇段審査に必ず出る動きの激しい技。
取り(技をかける側)は正座した状態で、相手を投げ飛ばし、投げた相手を膝行(正座の状態のまま前進)で追いかけ、さらに投げる。
受け(技をかけられる側)は、連続して飛び受身……
前の昇段審査では、20代の若者が息を切らせながら、この技を演武していましたから、かなりの体力が必要な技です。
帰り道、頭の中は真っ白。
胸の中では青黒い怒りが渦を巻いていました。
家にたどり着くなり、私は脱いだ上着を床に叩きつけ、ゴミ箱を蹴倒して叫びました。
「五体満足に生まれていればっ!」
次の瞬間、背中から左肺に鋭い痛みが走り抜け、私は紙くずが散乱した床にうずくまりました。
左肺の内側にぴしぴしと亀裂の入る鈍痛。
左の肋骨にそってじりじりと焼けつく痛み。
早鐘のような鼓動。
喉には棘の刺さったようなちりちりする感覚が居座る。
立ち上がろうとしたとたん、猛烈な勢いで咳……
喉にはえぐられ、肺はひびわれ、肩から背中は刃物で斬りつけられる……
そんな痛みをこらえながら、うずくまって肩で息をするのが精一杯。
とりあえず、そのままで痛みが弱まるのを待ちました。
痛みがすこし弱まったすきに、床を這って、なんとか鞄までたどり着き、ステロイド吸入薬、気管支収縮予防剤、気管支炎用に出ていた軽い消炎剤を飲みました。
喘息の薬と気管支炎の薬が同時に切れるなんて。
薬の効力が切れる時間をずらして飲んでいたはずなのに。
こんな計算ミスを……うかつでした。
私は壁にもたれたまま、床に両足を投げ出して、ステロイド剤が効くのを待ちました。
体を横たえると肺がせばまり、息が苦しいので寝ることができないのです。
ステロイド剤は、喘息患者が普通に使う気管支拡張剤と違って、薬が効くのが遅い。
気管支収縮予防剤となると、ステロイドより、さらに効きが遅い。
昔は私も気管支拡張剤を使っていましたが、副作用事故に遭って以来、体が気管支拡張剤を受けつけなくなってしまったのです。
……「今回は見送れ」……
道場長代行の言葉を思い出し、涙が止まりませんでした。
「技が下手だから」という理由の方が、まだマシだった。
技は稽古すれば上手くなる。
でも、「体力が足りない」……となると、生まれつき、呼吸量が健康な人の7割しかない私は、永久に昇段できない。
これは武道家にとって「死刑宣告」に近いもの。
……しょせん合気道も、健常者の武道なのか……
この6年、「初段を取って喘息に効く丹田呼吸法を習得する」
……それだけのために、毎日、家でもできるだけの稽古をし、道場にも、体調が許す限り通うようにして……それでも、予定の5年を過ぎて、6年目に昇段がずれ込んでしまった……
今年の年明けから仕事が忙しく、残業が終わってから、なんとか道場に駆けつける日も多かった。
できれば、春の審査を受けたかったのです。
特に、この2ヶ月は、喘息に気管支炎。
「左肺がいけませんね。合気道をひかえては」と渋い顔の主治医を説き伏せて、薬をもらい、薬で無理やり痛みを止めて、稽古に通う日々。
道場によっては、月に一度、昇級昇段審査が開かれるところもあるそうですが、私の所属道場では半年に一度。春と秋。
でも、「秋に」と気楽に言えない事情がありました。
私の職場は、今年10月に組織が大きく変わります。
6月からは研修がはじまる……
そうなると、今ほど稽古に来られなくなります。
審査当日出勤している可能性も高い。
そして、もう一つの大きな理由、「喘息は加齢に従い悪化する」……
現在、私は「中等症持続型」、喘息薬がなければ日常生活が不可能なランク。
このまま喘息が悪化して、「重症」、酸素吸入器なしでは生きられない体になるのか……。
それとも、丹田呼吸法を習得して、喘息を弱めるのが先か……。
もはや時間との勝負。
初段が取れない。
丹田呼吸法を習得するスタートラインにすら立てない。
残りの持ち時間は、あとどれくらいなんだろう……
背中と喉の痛みは治まりましたが、まだ左胸が痛む。
左胸を両手でおさえながら、ふと子供の頃から何度となく見た光景を思い出しました。
ただ強い風が吹き渡るだけの荒地。
私が立ちつくしているのは、白く乾いた何もない大地。
左手には金色に染まった空。
右手には、どこまでも広がる蒼く冥く冷たい透明な虚空……
父方は、先祖代々強烈なアレルギー体質の家系だった。
受け継いだのは喘息、鼻炎、結膜炎、接触性ジンマシン、アトピー、発疹性食物アレルギー、花粉症……アナフィラキシーをのぞく、ほとんどのアレルギー症状。
2歳の時に喘息を発病、医者の宣告は「この子は二十歳までもたない」。
小学校入学当時、アレルギーや喘息への偏見は強く、小学校入学から高校卒業まで12年間「各担任申し送りつき要指導生徒」処分。
おかげで、ほとんど友達ができなかった。
社会に出ても、体力上できなくて、やりたいことを断念した。
この頃、アレルギー患者は激増して、世間の偏見は薄れたけれど、私の病歴の長さと病種の多さ、実際に出ている症状の軽さは、他のアレルギー患者にとって脅威だった。
喘息薬(気管支拡張剤)の副作用事故。
かろうじて自力で切り抜けるけれど、発作性頻脈の後遺症に悩まされ、その後は寝たり起きたりの生活。
徐々に体調がよくなってきたものの、もう気管支拡張剤は使えない。
気管支収縮防止剤やステロイド剤は、気管支拡張剤より弱いので、喘息のコントロールが難しい。
……どれも、私が望んだことではないのに……
実は、私の体は見かけ上、健康な人と変わらないのに、時々医者から突然「あなたは一生○○できない。生まれつき、その部分がダメだから」と言われて驚くことがあります。
ドクターストップだらけの人生。
でも、最初の「この子は二十歳までもたない」の死刑宣告にくらべると……「死んでないから、まあいいや」と暢気にかまえているのですが……
時々、「私が健康だったら、どんな人生を送っていたか?」と考えてみたりします。
はっきりイメージできないけれど、もっと自由に、もっと色々なことができたと思う。
……空の空、空の空なるかな。みなすべて空なり……
伝道の書の一節を思い出した後、私は左胸の鈍痛をこらえながら、よろよろと立ち上がって床の紙くずを片づけはじめました。
合気道の稽古には行かない……そう心に決めて。
……次回に続く……
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2007年04月17日
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