「俺は、前々から、なんで、お前ほど自己防御能力の高いやつが、武道やれへんのやろ。大抵の武道で段取れるだけの素質あるんに、もったいない。そう思とったんやが」
「は?」
夫は、空手4段剣道3段少林寺拳法3段合気道2段柔道初段で、空手と剣道の指導員の経験があります。
今でも時々、夜中に空手着を着て、台所で空手の型稽古をやっているほどの武道好き。
「だけど、大抵の武道ってランニングするもん。私は喘息だから走れないし」
「いや、一つだけ走らん武道あるで……合気道や」
夫の思いがけない言葉に、私は手に持っていたコーヒーカップを落としそうになりました。
私は前に合気道に負けたことがあります。
昔、夫と玄関先で大喧嘩した時。
夫は私に平手打ちして、髪の毛をつかんで引きよせた。
私は引きずられると見せかけて、いきなり夫の顎に頭突きを食らわせ、ひるんだ夫の腹に蹴りを入れる。
蹴りを入れられた瞬間、夫は剣道の受身で自分から後ろへ飛び、床で腹を押さえて転げまわった。
私は、夫がのたうちまわっているのがフェイントだと見破り、そのまま外へ出ようとした。
後ろ手でドアノブを握った瞬間……
夫は、私のもう片方の手首をつかむやいなや、ひょいと投げ飛ばし、私は玄関マットの上にしりもちをついた。
夫はドアの前に立ちふさがり、「俺が悪かった!」と叫んで、そのまま泣き崩れた……
しばらくして、お互いに、相手にケガをさせないように手加減していたことに気がついて、「合気道恐るべし」「俺としたことが不覚やった」と言い合い、「今度からは、殴る蹴るの前に、ちゃんと話し合おう」ということで、結局和解しました。
合気道とは、こんな変な出会い方をしたので、私のイメージは「手品のような恐ろしいもの」だったのですが。
「合気道は、柔軟運動を十分にするから、肩こりに効くし、丹田呼吸法をマスターすれば、精神安定や自律神経や喘息に効く。どうや。やってみんか?」
なんだか健康食品や温泉の素みたいです。
私は2歳で喘息を発病。30年以上、色々な治療法を試しましたが治りません。
95年、喘息薬の副作用事故で死にかけ、かろうじて自力で助かったものの、その後5年ほど、突然心臓の動きがおかしくなる、『発作性頻脈』という後遺症に悩まされることになりました。
「俺、お前が喘息の薬使ってるの見て、また変なことにならんか、いつも心配やねん。下手したら死んだりする薬なんか、できるだけ、使わん方がええ」
「でも、薬を使わないと眠れないし……」
「丹田呼吸法をマスターできたら、今より薬使う分量減るし。お前、今より元気になると思うわ。そやけど、丹田呼吸法をマスターするには、最低でも初段取らんとあかん。お前の反射神経からしたら、最短の5年やろ」
「5年かあ……」
いきなりの高い目標設定に、私はひるみました。
「お前が体力的に行けるのは合気会だけやろ。合気会は女の子多いし、温厚な人が多いから大丈夫や。俺は大東流合気柔術で流派違うけど、基礎の足さばきぐらいは家で見たる」
このまま喘息が悪化して死んでしまうより、わずかな可能性をかけて、5年がかりで丹田呼吸法を身につける方がマシかも……
私は合気道を習って、初段を取って、丹田呼吸法を習得する決心をしました。
「ところで、一つ訊いていい?」
「なんや?」
「私が武道やらないのが、もったいないって、結婚してから10年も、ずっと思ってたわけ? もっと早く言ってくれたらよかったのに」
夫は笑いながら言いました。
「最初に会った12年前から思とったけど、物事には、時期いうもんがあるからな。お前自身がその気にならんことには、どうにもならんわ」
……次回に続く……
【関連する記事】